金丸レークタウンに不動明王出現の記
2001年3月吉日 吉田 龍夫
○石仏の出現 ○石仏を調べる |
|
写真1 新発見の石仏 |
写真2 石仏発見の現場 |
金丸レークタウン下の電話ボックスが立つ角を曲がり中野神社方面に少し歩くと、山際に新しく植えられた三つ葉ツツジが並んでいた。柵の内側に入り、木の根本を見ながら落ち葉を踏みしめ々々山裾の地を進むと、切り残した木の根本に、木漏れ日の淡い日影を浴びて石像が安置されいた。 お顔のある前面は、長年地上に立っておられて風雨に晒されたせいかその細かい彫は殆ど失われて、表面は緩やかな曲面で覆われている。その大きさは、柔らかい木の根本に安置する為に下部を少し土で埋めてあるので正確には判らないが、高さ約30センチ程の石仏である。前面を子細に見ると、背後の光背は明らかに火焔で、右手の上部にはその物自体は消滅してしまっているが利剣の痕が見え、左手は嘗て羂索を下げておられたであろう形をしている。 不動明王であることに間違いないと思う。 家に帰って早速、旧知の津久井町史編纂委員で石仏に詳しい菊地原稔さんに電話をかけると、夕方、車を飛ばして来駕される。 現場で見てきた石仏の事を話すと、不動明王に間違いないとのことで、津久井町の石仏に詳しい同氏も、近頃、忘れられていた石仏が発見される事は珍しいの事である。同じ様な不動明王は明日原にも在って、道標の上に鎮座しているとの話を聞く。 翌20日は、偶々、津久井町郷土講座で「津久井探訪・江戸への道を歩く」の会が開催される日であった。 当日歩く予定の道は昨年も同じ道を歩いたが、運動不足気味の昨今には絶好の歩くチャンスと参加して、梅満開の津久井古道を一日歩いた。途中中野神社に立ち寄ったが、その地域を案内して下さった地元の古老の方から中野神社前を城山方面に通ずる道は大山道の古道であるとの話を伺い、今回発見された不動明王が大山道端に立っていたことを再確認する事が出来た。古老の話は続き大山道の古道と城山の間には嘗て不動明王が祀られていた不動平の地があったのことである。そこに祀られていた不動尊像は、何時の頃か東京方面の寺(その名前は当日は不明であった)に移され、今もその寺は繁盛しているなどの話を伺った。 インターネットで不動明王について調べてみると「関東三十六不動尊霊場」の一覧表が得られたが、津久井の不動明王はその何れかの寺に祀られているものと思える。識者に不動平の不動明王について更なる情報をお教え頂ければ幸いである。 |
|
|
|
「津久井の古道」を紐解くと、此の石造の道標について次の様に記している。 大山信仰者が造立したといわれる石造りの道標は、高さ1,10m、上部に不動尊の座像(年代不詳)があり、台石の正面に 南:大山、あつぎ道、みませ道、 右側には、 東:阿した原、下平井、小倉舟渡、 西:根小屋、川和、吉野、上の原、 と刻まれている。道標横には、馬頭観世音(年代不詳一基、昭和12年一基)が建立されている。 不動明王の脇侍は必ず二人の童子、こんがら童子と、せいたか童子と言うことになっている。 と言うことは、明日原の道標の両脇に在る石碑は、中央の不動明王が座る道標とは直接関係の無い石仏を、近年脇に置いたものと思える。 金丸で21世紀に再発見されて出現した石仏と、明日原道標の上部に座す不動明王像の写真を並べて見ると、両者が同種のものであることは明らかである。 |
|
金丸で新発見の石仏 写真1(再掲) |
明日原の不動明王 写真4 |
○大山信仰 串川東会館に行き、津久井の各地に残る不動明王が上に座す同種道標と、大山信仰を調べてみると、それらを記した何冊かの資料に巡り会う。 大山信仰に関する本の中に、「相模大山への道は、大山を中心として関東一円に網の目のように広がっていて、現在各地に残っている大山道の石の道標を見ても、昔の盛時のもようが推察される」の記述があり、明治末期に書かれたという「大山史」に大山詣で道筋の紹介がなされているが、「各村より大山村に至る道を研究するに、県下至る所、大山道のあらざるなく、山中、田野、はた海辺に大山道と記せる石標のじつに累々たるを見るべし。大小の岐路、いやしくも其の一端がおおやまに達するものは悉く大山道となづく。其の岐路に至って人の迷う所には、必ず大山道の石標を設立せり。」とある。 大山信仰は、今日我々が考える以上に大変なものであったらしい。山頂の阿夫利神社と山腹の大山寺が一体となって大山信仰の核となったと記されている。 神社は、2200余年以前に第10崇神天皇の御代に創立され、寺は天平勝宝4年(西暦752年)に良辨大僧正が入山して不動堂建立以来時運到来したとの事である。江戸時代には現世利益を願う江戸っ子や、水を必要とする町火消しなどが盛んに訪れその様子は浮世絵や落語「大山参り」をはじめとする文芸作品に描かれていると。 ○城山町に残る不動明王が座す大山道標 |
|
此の道標は、「津久井郡文化財石造編」に掲載されている、城山町原宿に立つ大山道の不動明王の道標である。 写真5 |
|
○むすび 金丸レークタウン内で石仏が発見されたの報を聞いて、私なりに調査を進めた結果、その像は不道明王であること、そして嘗て大山道の道標上に座していた石仏であったことを突き止める事が出来た。 上の結論によれば、金丸不動明王が鎮座していた下の台座が当然存在する筈である。その周囲の地から台座を発見することが出来れば素晴らしいと思う。 21世紀の光にせっかく目覚められた不動明王に、嘗ての台座の上に鎮座して戴きたいと願うのは私だけではない筈である。此の地に住む古老の話を伺ったり、石仏が発見された周辺を探ってみるなどをして、願いが実現されれば幸いである。関係者のご理解とご協力を願う次第である。 参考資料 ○つくい町の古道 ○津久井郡文化財石造編 ○相模大山と古川柳 根本行道著 東峰書房 昭和44年発行 ○仏像はやわかり小百科 春秋社編集部 春秋社 ○不動明王 大山信仰 関係 インターネット 記事 以上
|
大山道標・不動尊 後日記
2001年3月末日 記
明日原の不動尊にまみえて数日後、 根小屋にも他に大山道標があると聞き、早速写真機を片手に探索に出かける。旧根小屋小学校、現在の学校給食センター近くに在ると聞いたので明日原で出会った大山道標と同じ姿を求めるがそれらしき姿は無かった。
|
|
城山を背に道路端を探し求める内に、旧根小屋小学校の反対側角に石が散乱しているのに気付く。
コンクリートのマンホール状の上に、石仏らしきものが四角い石の上に乗せられている。周辺には、道路に迄はみ出してバラバラ状態に放置された石が散乱している(写真6)。
これが歴史的にも価値の高い、嘗て、大山参りの人々を導き、心の支えにもなった石仏が物質文明に毒された20世紀を過ごされた果ての姿と思うと、現代が、あまりにも惨めに見えてくる。 |
写真6 旧根小屋小学校前の大山道標 |
根小屋の石仏・大山道標を求め歩いて、余りにも惨めな結果となってしまったので、東会館の本で見た、あのどっしりと道標の上に座しておられる城山町の不動明王道標(前掲写真5)に会いたくなり、橋本での所用の帰りに訪ねてみた。
本に掲載されていた、不動尊が大山と大書された立派な石柱の上に座す写真と、それが立つ場所を示した地図を片手に、城山町の原宿自治会付近の道筋を歩く。手に持つ紙を広げて、通りかかった地元の古老の方に伺うと、「此の辺りは大抵私の本家の土地で・・」とのお話。これは良い方に巡り会ったと喜んだが、肝心の道標に関しては「そんなものがどこかにあった気もするが・・?」と一向に要領を得ない。 地図を見ると原宿自治会館前道路の向い側に在る筈であるが、その場所にはスーパーが建ち、その前の道は目下工事中である。スーパーで店長に「此の辺りに古い道標が有った筈ですが・・?」と聞くと、「確かに在った様ですが今はどこにあるのか・・?」の返事。道路工事の交通整理をしていたおじさんに聞くと「此処の者でないので良く分からないけれど、そういうものは役場に行けば分かるのでは・・」の話。 原宿自治会館も、昨年であったか、古い建物が現代的な建物に変わってしまった。以前の自治会館前には亀の彫刻が上に乗った古い井戸があったことを思い出し、新しい自治会館の裏手に回ると、小さな神社の周囲を鉄の檻で囲んだ一画がある。鉄柵の入り口には大きな鍵が下がり、内側には容易に入ることが出来ない仕組みとなっている。柵の間から中を覗くと、幾つかの石仏様のものが狭い場所に並べられ、入り口近くに布地で覆われた石仏が置いてある(写真7)。どうやら探し求めた、嘗ては、背丈程の道標上にどっしりと座っておられた不動明王の様である。 道標の柱は?と柵の隙間から探すがそれらしきものは見あたらない。柵の中に入れないのが何とももどかしいが如何ともしがたく、当日はそれまでと諦めることにした。 |
|
写真7 城山町の大山道標の現状 |
|
原宿自治会館前の工事中道路に再び出る。 嘗て大山を目指した人々は、何を思い 何を語りながら歩いたであろうか。 今、その古道の辻は道路工事の真っ最中で、その場所にあの大山道標が存在した痕跡のかけらも無い(写真8)。
不動尊とその下に立っていた道標は既にばらばら状態となり、今、原宿自治会館裏に置かれた不動尊が、嘗てあの辻に立っておられたことを知る人も最早数少ないと思う。原宿自治会館が新しくなり、スーパーが出来たのは確か1〜2年前のことであった。そして、その周辺道路は今工事中である。と言うことは、2、3年前迄、あの不動尊が鎮座されていた大山道標は、確かにそこに立っていた筈である。 根小屋のばらばら状態の大山道標を見て愕然とした気持ちは、期待して訪問した原宿道標の現状を見るに及んで、益々落ち込んでしまった。 戦後に、それを作れば便利と物を作り続けた結果生じた物質文明は、自然が万年億年の歳月をかけて作った石油石炭を爆発的に消費し、そしてダイオキシン、オゾンホールを出現させるなどなど、今や、人類の生存そのものを危うくさせてしまった。 更に20世紀の物質文明は、人類を物理的破滅に追いやったのみでなく、人々の心をも蝕んでしまったらしい。 人々が神仏を信じ、大山参りの道標を造り、その上に鎮座する不動明王に手を合わせたのはそれ程に古い事ではない。 現代を生きる人の数代前の人々、2〜3百年前の江戸時代に生きた人々が日常的に行ったことである。 人々の心が染み込んだ石仏をばらばら状態で放置し、貴重な歴史遺産を次の世代に残すことを忘れた人間に、真の幸せが訪れるとはとても思えない。 対策が急がれる。 21世紀は、20世紀の物質文明を反面教師として、我が国にも嘗て存在した「心を重視した文明」を築き直すべき、新しい時代の到来と考える。それなくして人類が生き続ける事は出来ないと思う。 以上
|